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家事をレスに。

物を捨てて「忙しい」を捨てる【淘汰78】

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私は物を捨て、忙しさから抜け出すことができました。
スリランカ上座仏教の長老、アルボムッレ・スマナサーラさんの著書、「忙しい」を捨てる—を読んで実感したのであらためて。

  

 

過激な言葉で、柔軟な思考を語る

この方の本は好きで以前から読んでいましたが、これもまた強烈でした。前提も常識も生きる世界も全てが違う。納得したり反感を抱きつつ、何ともクセになるのです。

人生についてはマンネリ的に考えないで、客観的に観察したほうがよいのです。伝統、文化、習慣、信仰などは、私たちの思考を濁らせるのです。

にはじまり、

宗教は人間の妄想を商品化しているだけです。 

に終わる。

 

( ゚Д゚)ワァ

 

ご自身が宗教家でありながら、なんとも豪快な。
(学者でもあるからでしょうけど)

返す刀で、時間に追われる日本人も、バッサリ切り捨てます。忙しい人は反感を感じるかもしれません。文体は対談や講演会を聞いている様で、あちこちにキーワードが埋め込まれている感覚。

過激な言葉で、柔軟な思考が綴られているのです。

そのギャップが、クセになるのです。


 

 

今、わたしは忙しくないと実感している

今、私は有難いことにそれほど忙しくありません。
残業は無いし子どもも成長したし、介護もとりあえずひと段落しているからだけど、それでも昔の私なら、それでも時間に追われ「忙しい」と感じていたでしょう。

気忙 きぜわ しいというか、気が休まらないというか。

仮に専業主婦だとしても、落ち着かないままに一日を終えて疲れきり、寝ようにも勿体なくて眠れない、そして朝は寝不足で体調不良で家事が溜まってて…

終わらない、気付いてもらえない、認めてもらえない。頑張っても報われず、意見しても届かない、余裕どころか時間が無い、体も心も休まらない、給料も達成感も何もない…

そんな日々を過ごしていたかもしれません。

 

以前は死ぬほど忙しかった

かつては結婚と同居と妊娠、仕事と育児と看護介護すべてが重なり、忙しかったのです。筋線維痛症になるほど、体も心も追い詰められていました。そんな私が心の平穏を取り戻したのは、片付けでした。

といっても掃除で「感謝・修行」系の考え方は大嫌い。むしろ悪化しました。

これは修行、期待してはいけない、むしろ感謝しなきゃ…という「べき思考」に陥って、ままならない自分に嫁失格・妻失格とセルフ追い込みをかけました。

まぁその結果 逆切れ 開眼できたので、結果オーライかもしれませんが。

ある日ブチ切れ、(新婚なのに)生前整理よろしく捨てていた私物以外にも手をつけはじめました。苔むしたタイヤ、割れた植木鉢、塗装のハゲた物干し竿…

処分は罪悪感が伴うし、体もつらく、周りとの軋轢もひどかったですが、正直なりふり構っていられませんでした。

生まれてくる子のためも、自分が生きるためにも…と。追い詰められていたのかな。

…いや、子ども云々は口実かな。
充分したたかに生きてたね、私。

 

物が減るにつれ、忙しくなくなった

そんな数年を経て、物が減るにつれ実感するのは、家事が楽だということ。管理も要らない。時間も掛らない。体力も使わない。買い物も減った。手順も減った。

家事が楽になれば、自分を気遣うこともできます。体調もだいぶ戻り、体の痛みも減りました。

もちろん環境の変化や子どもの成長、良いお医者さんに恵まれたのも大きいですが、物を減らす=家事を楽にするのだと実感したのです。

以前、物の多さは家事のバグだと書きました。

 

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物を減らし、今やる。それだけで、プログラミングは簡素化します。
物の多さは家事のバグ。
ただただ物を減らすだけで、家事の効率は上がるのです。

物が少ないとスグやれて、物が少ないのでスグ終わるようになったのです。

 

私達は概念の奴隷、物の奴隷

スマナサーラ氏は言います。

時間も自我も血圧の正常値も、私たちが自ら作り出した概念でしかなく、それにより自ら支配され奴隷となっていると。

それを世間は常識というけれど。

腹囲の正常値やウエストの細さ、あいまいな退社時間や結婚適齢期、メイクの流行やスキンケアの順番…確かに私たちは、自ら作り出した概念に支配され、忙しくしているのかもしれません。

まぁ、社会の在り方や企業の戦略まで考えたらキリが無いので、これらは置いといて。

私達は簡単にの奴隷にもなりえます。
概念や欲望が具現したのが、物だから。

いつでも何でも買える現代。買うことに疑問を持たず、壊れても処分せず、買い増ししても使わずに増え続ける物たち。

常識、という名の概念が心身に浸透し、いずれ思考停止する様に、物は生活に浸食し、いずれ私達を動けなくしてゆきます。

支配され囚われて、動けないことに気付けない。そして自ら買い集めた物の奴隷となり、忙しいのではないでしょうか。

 

あのとき、私は「物に支配されたくない!自分の人生を支配したい!」とキレました。
それはきっと、物に囚われた魂の叫びだったのかもしれないな、とも思うのです。