家の中に危い場所がない、という防災を伝えたい
地震でも「家に居るなら大丈夫」と思えるのは、とても安心なことだと思うのです。
親のチリ地震津波
私と両親のふるさとは東北の沿岸部。
50年ほど前の1960年、チリ地震津波が押し寄せました。親がむかし済んでいた家は津波に襲われて壊れ、高台に引っ越したという経緯があります。
私が子供のころ、小学校の地域学習はその津波についてでした。調べたり発表したり、家族に聞いたりもしています。
それなのに、いま私が覚えていることといったら、「津波でラベルが剥がれて、なんの缶詰か判らず闇鍋状態だった。イトコ達とえらんで開けたら、全部キライな黄桃で嫌だった」という言葉だけ。
( ゚Д゚)
私のアホ―!もっと大事なこと覚えとけ!
まぁ実際のところ、母も7、8才の頃の出来事で記憶もおぼろげなうえ、祖母は思い出したくないらしく、あまり話してくれませんでした。だからそれぐらいしか聞けなかった、というのが本当のところなのですが…
私の東日本大震災
あの日、私はある店で本震に見舞われました。
ちょうど小1の息子の帰宅時間、家には10分で帰れることを想定し、M9のさなか実家に電話しました。今を逃せは繋がらないと確信したので。
母が家にいることを確認できただけで電話は途切れました。
長い本震がやんで車に飛び乗ると、何人かが正面の家から出てきました。うち1人は頭からかなりの出血をしていましたが、非情ながらすぐにエンジンをかけ家に向かいました。
その後の移動はこちらの記事のとおりです。
家について子どもの無事も確認し、その30分後。 かすかな水音が聞こえてきました。まるで遠くの通り雨のような、ささやかな。
はるか遠くのはずなのに、あまりに物量が多すぎて大きすぎて、どうしても聞こえてくるような…
総毛立ちました。
それはやはり津波で、一部始終を目撃し、そしてやはり、その様子を口にするのはいまだ難しいです、私の祖母の様に。
震災の記憶や記録はたくさんありますが、家族にすら伝えるのが難しいことがあることを、身をもって体験しています。
伝えられることが少ない
親の世代は2度、津波を経験しています。
私たちも、子ども達もまた、経験するかもしれません。
でも、この経験を子ども達に伝えるのが難しい。先に活かすのが難しい。
もちろん、行政は変わり、避難ビルが経ち、備蓄が進み、耐震技術は向上しています。でもそういったハードやインフラだけでなく、ソフトやメンタルにフィードバックするのは難しいと考えています。
突然降りかかる未曾有の震災に備えて日常を送るのは難しいことです。
それにできれば子ども達には苦しい記憶を伝えきれないし、怯えさせたくないし、もう辛い思いもさせたくないし。
あぁ、祖母や母はこういう気持ちだったのかな、と今、思うのです。
家の中に危ない場所がない、という防災を伝えたい
未曾有の大災害に人が抗うのは難しいことです。
そんな中でも、家で唯一対応できそうなのは、地震対策。
以前の記事でも述べたのですが、国が対策を施した道路すら破壊する大地震を相手に、個人の財力やDIYでの対策では限界があります。
突っ張りタイプの防災グッズも、あの地震では天井に簡単に穴をあけ、物は倒れ被害が拡大しました。日本家屋の天井や壁は空洞です。芯材がなく、押せばヘコむ天井板では大地震の際、支えにはなりません。
結婚時、我が家のリビングの3面が棚でした。それらを淘汰した後の震災だったのです。もし淘汰しなかったら、娘は高さ170cmの食器棚の下敷きになっていたかもしれません。
家で被災しないために
だから、せめて家のなかで、被災しない術を伝えたい。
震災の苦しい記憶を掘り起こし、子ども達に詳しく話して怯えさせるのが、震災を生かす方法とは思えない。別の形で引き継ぎたいのです。
住まいを安全な場所にするために、物を減らす。
それが費用対効果も非常に高く、現実的で効果的な減災方法だと伝えたい。
家に居ながら被災しケガをすれば、その後の避難も危ぶまれます。まずは第一次発災の際、できればケガをしないこと。これが生き抜くために大事です。
あの大地震の直後、ケガをされた方はどうしただろうと思い出します。家族といたとはいえ…あの場所も浸水し、数週間は水が引かなかった地域です。病院に行ったのだろうか。高台に逃げたのだろうか…
いつ起こるか分からない災害。
家に居るときの地震ぐらいしか、わたしたちが対策できることはありません。
できれば物が落ちてこない様に、転んでもよりましなケガで済むように。少しづつ、物を減らしてみませんか。
家で被災しないために。