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家事をレスに。

人も物も、輪廻より解脱が正規ルートだったはずなのに…

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物の少ない暮らしに幸せを感じる反面、いまだ物を減らすしんどさ、というか空恐ろしさを感じる時があるのです。

物を減らして幸せ。だけど。

清掃用ワイパーの利便性に感謝しつつシートを捨てまくり、愛着ある家具を売っては罪悪感にかられ、人形をお焚き上げしては畏れ、ネットフリマを利用しながら不用品の沼とおびえています。

日々の暮らしは楽なのは確かだし、幸せではあるけれど、物を捨てる作業は罪悪感があってしんどいものです。

じゃぁ捨てずにフリマ…と思っても、物をリサイクルもとい輪廻サイクルに出すという所業が、いつしか良いコトかどうかも判らなくなってきつつあるのです。

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骨董屋でみつけた輪廻の果て

催事の骨董品セールで、ボロボロで染みだらけ、継ぎはぎだらけの襦袢(じゅばん)を見つけたことがあります。

薄桃の小さな長襦袢に袖と裾を藍でついであり、裏は朱の袷で薄く綿が入り、別珍の半襟がついていました。さらに腰上げ肩上げの上から居敷当てが当ててありました。

これはつまり、子ども用のピンクの襦袢(下着)を、成長にあわせて藍色の布で継ぎたし大人サイズにしたのです。さらに朱の裏地をあてて二重にして綿を入れ、ベルベットの襟も当ててあるので、下着だけでなく掻い巻き(寝具)としても使ったかもしれません。そして仮縫いして小さく直し、腰まわりを別布で補強しているということは、その後子どもが着ていたと考えられます。

この仮縫いをほどけば大人サイズとして使えるのだから、まだ使うつもりでいたのでしょうか。

様々な思いが押し寄せます。

おそらく2代にわたって使い込んで、20年以上。下着をここまで使い込んでも、この時代に骨とう品として売られている。今後襦袢として使われるなんて絶対に無いだろう。時を経れば価値があがるだろうか。買われる時なんて来るのだろうか。もう処分されたのだろうか。まだ売られているのだろうか。

あの襦袢はいつまで、この現世で輪廻サイクルを廻り続けるのだろうか。

輪廻サイクルから抜け出せない

サイズアウトした服を売って寄付し、それも叶わない服はボロとして処分する。

そうやって子ども達が小さい頃は過ごしてきました。でも、子どもも大きくなり、服が小さくて着れない、という言い訳がたたなくなってしまいました。
かといって買い与えない訳にもいかず。

今の時代、ケシズミになるまで使い切るのは難しい。どうしてもリサイクルショップに引き取ってもらうしかない。中古品売買に頼らざるをえないのが現状です。

使い切るのも難しい

たぶん、輪廻サイクルならぬリサイクルに出せない状態、つまり最期まで使い切って看取る、処分するのが正規ルートの解脱なのかもしれません。

でも、今の時代は難しい。愛着があれば、より心情的にも難しい。

以前、感謝して物を手放すには最期まで使うのが一番じゃないかな、という記事を書きました。

部品の配給期間が過ぎるまで使った洗濯機や20年連れ添ったぬいぐるみ、ランドセルなどを手放すときは、罪悪感よりも感謝みたいな気持ちが大きかったのですね。

使い切った、という気持ちがあったから。

でも反面、部品があれば洗濯機はまだ使えたはずだし、ぬいぐるみだってランドセルだってその用途はまだ失われていないのです。引退せざるを得ない時期だっただけで。

この時代、使えなくなるまで使い切るのは難しいことです。

また、心情的に難しい面もあります。

16年間を屋内で使ったガーデンセットをリサイクルショップに引き取っていただいたのですが、それも用途は失われておりませんでした。

本来の用途である屋外に置こうかとも思ったのですが、劣化するのを見るのは忍びなくて逃げたというのが本音の一端ではあるのです。

【関連記事】

断行、捨行、離行とは言うけれど

ぬいぐるみ、洗濯機にお人形にガーデンセット。
あれだけ使っても、手放してからも思い出します。
そしてあの襦袢も。

壊れるまで使ってもお焚き上げをしても、スッキリという訳にはいかないものです。使い切って処分するのが解脱ルートかとも思ったのですが、そういう訳でもないみたい。かといって、リサイクルで延々現世を廻り続けるのも物悲しい。

こんな時代だから仕方ない、いつか手放さなければならない、死蔵し劣化させるよりマシ、汚部屋で心身を穢すより断捨離でリセットしよう、リサイクルで次の人に繋げよう、子ども達に遺品処理の負担を負わせたくない…

色々な正論はあるけれど。
十年以上物を減らしてきたけれど。
色々と救われた面もあるけれど。

 

たまにふと、想うのです。

ティディベアや人形たちは、賽の河原で私を待っているんじゃないのかな…

迷いがより深くなる瞬間があります。

まだ使える物すら、生きるでもなく死ぬでもなくさ迷い廻り続ける、現世の輪廻に身捨てただけじゃないのかな…
たとえ処分したところで、地獄の釜の蓋をあけ、あらゆるゴミを放り込んでは業火に焼却処分させているんじゃないのかな…
三途の川も賽の河原も、不法投棄で溢れさせているんじゃないのかな…

 

もしかしてこの現代を生きる私たちは、解脱どころか輪廻の輪すら廻れない、法や教義すら逸脱して裁けないほどの罪深い業をおっているんじゃないのかな―と、ひとり想うときがあるのです。

 

 

結論:ものはだいじにつかおうね