感謝して手放すには、最期まで使うのが1番かも。
処分は辛い作業だけど、たまに感謝もある
高かろうが安かろうが、物を処分するのはしんどいものです。
そんな中、わりと感謝して、安らかな気持ちで手放せた物もあります。
今日はそれらについて。
10年以上使った洗濯乾燥機
その洗濯機はハズレだったのか、それとも私の使い方がスパルタなのか、何度も故障しては無償修理を繰り返しました。
洗濯乾燥機が壊れるたび、翌朝からバタバタして破綻する、の繰り返し。
文句を言いつつ、部品の保有期限すら過ぎるまで、使い切ることができました。
そしてとうとう、「故障したけど部品が無い」状況に。
壊れては悪態をついていたのに、ここまで来ると愛着も沸くのか『どうにか直せまいか』と一瞬思いました。でも部品がないなら、どうしようもないもんね。
即時買い替えとなりました。
夫からのプレゼントのティディベア
私が18才のとき、夫が巨大なティディベアをプレゼントしてくれました。
1メートル越えの。
ちょっと扱いに困るなと思いつつ、若さと初恋の魔法もあって嬉しかったのを、なんとなく覚えています。
二階の部屋に運ぶのも一苦労だったけど。親が引いていたっけ。
その後はベッドの上に鎮座し続け、太ももが枕がわりとなり、嫁入り道具になり、子ども達のオモチャになり、お腹が裂けては娘の患者となり…
そして20年。
手入れも難しいし、子ども達も大きくなって。縫っても縫ってもお腹が裂けて中身のスポンジが出る様になって、とうとうお焚き上げを決めました。
もちろん、夫には了承をいただいています。
あらかじめ数年前から、リメイクすべきか供養すべきか、相談していました。
夫も残念な想いがあったとは思いますが、さすがに破損が酷いことや衛生的な問題、子どもも共に遊び、すでに大きくなったこと、なにより20年も経ったので、供養ということで話はつきました。
でも、目がついているものを処分するのは辛いですね。
お人形をお焚き上げしたときは、震災という背景もあって、かなりしんどい思いをしました。
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ティディベアは人形の次のお焚き上げということもあってか、精神的には人形よりマシでした。また、夫・子どもも含め使い切った感があって、「しかたない」と諦めもついたと思うんです。
お焚き上げで郵送する際、造花と巨大どら焼きをお供物に入れました。
子どもの顔ぐらいの大きさのどら焼きなのに、ティディに持たせると小ぶりに見えて、なんだか小さいなぁ、2つ持たせればよかった、と思ったのを覚えています。
しんどかったけど、感謝みたいな気持ちと共に送り出すことができました。
子どものランドセル
私には子どもふたりがいますが、共にランドセルは寄付することができました。
こればかりは手放すしかないですね。知り合いの新一年生にお下がりという訳にはいきませんので。
ふたりともランドセルをキレイに使ってくれたので、破損もなく寄付することができました。ランドセルにも、子どもにも感謝です。
最期まで使い切ると感謝が沸くのかも
以前、こんな記事を書きました。
物を処分するとき、どうしても罪悪感や畏れを抱えます。
でも、物はきっと、仕返しなんてしないと思うんですよね。ただただ待ち続ける。畏れられて、放置されて、劣化し壊れて、忘れられても。
ただただ、在り続ける。
それが現代日本の「勿体ない」の現実。
だから、物の最期を決めるのは、そして葬るのは、自分たちじゃないのかな。
子ども達に負わせないために。物に不憫な思いをさせないように。
そんな事を書きました。
勿体ないと抱え込む裏には畏れがあって、その裏には罪悪感があるのでしょう。
「マトモにつかってない」という罪悪感が。
今回、私は感謝して、わりと安らかなきもちで洗濯機やティディベアを手放すことができました。
それは「使い切った」という思いと「しかたない」現実が罪悪感を薄めてくれたからだと思います。
何度かこういう「感謝して手放せた」という経験をして、できるだけ何でも使い切ろうと心から思いました。
片付けを進めることで、私が学んだことの1つです。