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家事をレスに。

淘汰された100の物たちー18個目【人形供養と罪悪感からの離脱】

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先日、全ての人形を供養しました。長いこと罪悪感に苦しみましたが、やっと消化できた、というか…

罪悪感は偽善、そこからの離脱も偽善というなら一体どうすりゃいいのさと逆ギレしたりもする話。

母娘であそんだお人形

小学生のころ、両親がジェニー人形をプレゼントしてくれました。祖父が亡くなり家の改築を延期し、プレハブ小屋で過ごしていた頃でした。

いろいろ大変な時期だったろうと、申し訳なく思います。

小学生の頃は夢中であそびましたが、中学生になれば学業や部活が優先。いつしか箱に入れて保管し、私自身が出産するまでそのまんまに。

それを3才の娘に譲りました。
小さい頃はよく遊び、妹がわりにもう一体買ったりしたけれど、幼稚園でお友達ができ、お人形遊びは卒業。成長の一環ですから仕方ありません。

義母が買った2体を合わせ、計4体。風呂に入れ、散髪し化粧し、熱心に遊んだので状態が非常に悪く、人様にも譲れず困っていたところに震災がおきました。

 

お焚き上げをしたものの

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震災後しばらくたって、娘が人形を畏れはじめます。

小学生になり、現状を理解できる時期。近所が被災地として報道され、学校で様々な話を聞き、瓦礫に供えられ朽ちゆく人形を目の当たりにする日々。

思うところも、感じるものもあったでしょう。
私自身も、誰もがきっと、そんな悼みや畏れを抱いたと思います。
娘を責めることなどできません。

娘もお人形も気の毒だし、思い出が変質するのも忍びなかった。
逡巡しつつ数年。まず、特に状態の悪かった義母の人形2体を供養したのです。

 

いつ喪は明けるのだろう

お焚き上げは、数年間お人形と真摯に向かい合った末の判断です。
納戸の奥へ押し込んで死蔵する方が無体だし、娘に押し付けるのも無体だし…

けれど。 

こんな時代だから仕方ない、いつか手放さなければならない、死蔵し劣化させるよりマシ、汚部屋で心身を穢すより断捨離でリセットしよう、リサイクルで次の人に繋げよう、子ども達に遺品処理の負担を負わせたくない…

色々な正論はあるけれど。
十年以上物を減らしてきたけれど。
色々と救われた面もあるけれど。
たまにふと、想うのです。

ティディベアや人形たちは、賽の河原で私を待っているんじゃないのかな…

重苦しい思いは消えません。

震災や家族の死を重ねて感情も思考も複雑化しているとはいえ、義母の買った、思い入れの少ない人形ですらこんなにしんどい。

なんでも最後まで使い切ることが大切だとは思います。でも、人形を最期まで使い切るということは…人様に譲ったり転売できなくなる訳で。

最期を看取らなくてはなりません。
罪悪感を全て背負わなくてはなりません。

人形相手にそんな悩まんでも…と思えども、人と違い相性で別れることもなければ命尽きることも無い存在。物とは言え、看取る=手を下すことと同義でした。

一体、いつになったら喪は明けるのだろう…

それは思った以上に大きな負担でした。

 

虹の橋の向こう側へ

幼い頃ジェニーを手にしてから30年以上の時が流れました。娘ももう中学生。
とうとう供養を決心し、造花を敷き詰めた箱に入れ、でも…と納戸にしまい込み、一瞬忘れ、思い出し負い目に感じ…

逡巡の果てに供養した先日のこと。

「虹の橋」 

この詩に私は救われました。

そこは先立った動物たちが暮らす場所。橋を渡るとそこは楽園、虹のたもとで幸せに暮らし、いずれ訪れる飼い主と再会するところ。作者不詳の外国の詩だそうです。

petpedia.net

この言葉を知ってはいたけど、死を忌む造語だと思っていました。しかし先日、詩なのだと知り、読んでみたら突然に目の前が開けたのです。

明晰夢のような唐突な鮮やかさを伴って、虹のたもとの風景が広がりました。
七色の虹、緑の草原、青い空、透明な風。そこには全ての色がある。そして人形も、病死した実家の犬も、ティディベアもいて…

みんなこっちの方が幸せだよね。
私は、こう願っても良いのかな。
許されてもいいのかな。

すこし、救われた気がしたのです。

 

罪悪感という賽の河原をこえて

悲嘆から生じる罪悪感は、人として当然の感情です。なのに仏教はエゴと禁じ、心理学は陶酔と断じ、社会は悲嘆を封じてしまう。

 

(偽善じゃん)
(自己陶酔…)

脳内のモブ共がざわめく。 

 

( ゚Д゚)ウルセ- 

私は虹の橋にすこし救われたけど、それすら陶酔にも思います。でもさぁ、悲嘆も罪悪感も陶酔、離脱すら陶酔っていうなら、一体全体どうすりゃいいのさ(逆ギレ)

これが罪悪感の恐ろしいところです。
いくら正論を積み上げようとも崩れゆく堂々巡り、それはまさに賽の河原。

外野の声も内なる声も振り切って、いつか賽の河原から立ち去らなければ、生者でありながら河原の住人となってしまいます。「時薬が処方箋」などと言うけれど、傷が深ければ深いほど、時と共に膿んでしまうことの方が多いのだから。

今まさに私の母がその状態…

私は未だ、自分を責め苛む母に、なんと声をかけたら良いか判りません。『気持ち解るよ』なんて気軽に言えないし、『解らない』なんて言えません。『気にするな』とか『偽善』とか『陶酔』とか、とても言えません。

ただ、罪悪感を消化することに強い罪悪感を持たないでほしい。

これだけは強く思います。そしていつか、母なりの虹の橋を見つけてほしいと願っているのです。

 

賽は積むもんじゃねぇ、投げるもんだ

賽の河原などという無慈悲な宗教観を心底忌み嫌いつつ、数年間そこで迷子になりました。そして今となっては、私たち生者の罪悪感が作り出す精神世界を示しているのだろう、という考えに至っています。

いずれにせよ救いすらない、無慈悲な世界ですが。

たかが断捨離。
だからこそ、私は冷静に自分自身の罪悪感を見つめることができたのでしょう。そしてつくづく、そこからの離脱は難しい作業だと実感しています。

されど断捨離。
十年以上にわたる断捨離は確実に、私自身の感情を切り離して整理し取捨選択し、罪悪感を消化する指針となってくれました。

そして今あるのは、子どもには同じ思いはさせまい、という思い。

いつか孫ができたら子どもたちと相談しようとか、与えるなら人形じゃなくせめてヌイグルミにしようとか、嫌な姑にはならないようにしたい(願望)とか、ボケて忘れぬよう健康でいようとか、じゃぁジムに行こうとか、そんな当たり前のことを考え、行動しています。

罪悪感からの離脱は長い年月が必要で、賽をひたすら積んでは崩すの数年間でした。
賽銭を積み賽物を積み、正論を積み石を積み、その果てにやっと辿り着いたのは「行動すべき」という意志。

賽は積むものじゃない。
賽は投げなければ。

行動しよう。
今やっと、そう思えています。