断捨離が教えてくれた、期待する「相手」とは
期待しない、という言葉をめぐるあれこれを記事にしています。
まとめると、私は自分や家族に過剰な期待をしていたなぁ、と気付いたということ。断捨離のおかげで。
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期待する相手が間違ってた
日本のお母さんって、なんか踏ん張っちゃうんでしょうね。
母たるものとかそんなので。
私も母親は太陽たるべしとか頑張った末、裸電球だったと気づいたクチですので、とても人のことは言えません。
当時はそんなつもり無かったけど、自分にも家族にも期待しすぎて空回りしていたことに気付いています。
かといって期待など絶対にしない、とか、だらしなくして良い、というわけでは無く、肩の力を意識的に抜くことができています。
掃除の効能「感情の切り離し」
断捨離や掃除の効能はいろいろありますが、私にとっての効能の根っこは「感情の整理」ができたこと。
ありがちですね。過去に区切りをつけた、とか、自分に過剰な期待をしなくなった、とか、自分を受け入れるとか。
でもちょっと違うのです。
感情の整理の前に、まず「感情を切り離す」という作業が必要になってきます。
これも客観的視点というとありがちですが、年をとれば自然と出来るものではありませんでした。これまで客観視と思っていたものは、単なる外野や世間の意見でした。
こんがらがった気持ちのままで、外野の意見に振り回されながら、自分は客観的視点で正しく考えていると思ってました。
でも、断捨離や掃除を繰り返すことで、自分の現状が見えてきました。
そして気付きました。
私は感情に飲み込まれていると。
掃除で感情を掃除する
アンガーマネージメントでも、怒りは第二の感情、その前に現れた第一の感情に気付く必要があると説いています。
怒りや恨みに飲み込まれる前の、心の機微。
共感を得られない。話してもらえない。話を聞いて欲しい。体が痛い。労わって欲しい。聞いていない、だまされた。信頼できない。
そんな微かな感情が何層にも積み重なり、しまいには怒りと憎しみに塗り替えられていたと気づきました。
かといって、意識や感情のクセを直すのは難しいことです。
ところが意識的に物を排除し、ひたすら断捨離を繰り返す日々の中で、物を介して自分に問い、感情と現実の折り合いをつけ、選択→排除をくりかえす。これが、物と同じく心の不要物を見つけ、折り合いをつけるトレーニングになったようなのです。
幾重にも重なる感情の層を少しづつ少しづつ断捨離し、私は奥底の感情にやっと触れました。
そして自分が感情に飲まれたままでは、何も見えていないんだと気づきました。
期待すべき相手とは
「自分は感情に飲まれていた」と認識することが、感情の整理の第一歩でした。
その後は、何がしか心が泡立ったとき、そこにこみあげる感情に溺れるのではなく、『飲まれてるなぁ』と視ることができるようになりました。もちろん頭はカッカするし心はイライラするし腹は立っているけど、臓腑のどこかで『飲まれてるなぁ』って思う。たぶん、これが「感情の切り離し」だと思います。
焦りや不安、恐れや悲しみ。そういった感情があふれても『飲まれてるんだなぁ』ととりあえず口にするようになりました。すると以前より、感情の立て直しが早くなったのです。
―飲まれてるんだなぁ くろぉれす―
過去や今ばっかり見てた
感情に溺れては過去ばかり振り返り憤っていた私が、自分を客観視できた結果の1つが、昨日の記事でした。
先日子どもと出かけたら楽しかったってだけの話。
でもただ漠然と楽しいではなく、「昔は『今しか楽しめない』と焦っていたなぁ」って、「小さい頃しか楽しめないと思ってたなぁ」って自分を客観視できました。
そしてこれからも楽しめるといいなと思えた、だけなのですが。
期待する相手とは
あぁこれだ、と思いました。
私が期待すべきは「人」ではなく「時間」だったんだと。
今は今で楽しむけれど、今しかないと思いすぎない。先にもきっと別な楽しみががある。
それを待てる。
今が最悪でも、過去とつなげて悲観しすぎない。先にはなにかしらの答えがある。
それを待てる。
悲観しすぎない。それを意識的にできる。
期待する相手を「人→時間」にスライドすることで、自分の考えや感情が穏やかになっていきました(当社比です)。
健康的な期待
能天気、とか問題の先送り?とも思うのですが、それともちょっと違う感じがするのですよね。
なんというか、備品の買いこみと在り方が似てると感じます。
先を視ず、安売りだから、限定品だから、今だけだからと買いこんで、心も財布も環境も圧迫して結局は満足できない。そんな心理的状況から脱却する。
いつでもどこでも、必要な時に何かしらが手に入ると心が判る。今を見極め、適宜満足できる。
そんな断捨離し、買いだめを抑止する思考と、同じ在り方だと思います。
悲観的になりすぎず、物も幸せも、いずれ必要な時に手に入る、と意識的に考えられるということが、まぁまぁ健康的な「期待」なのではないでしょうか。