老人と海、漁師と旅行者、凪と嵐と看護と介護
「老人と海」は、孤独と尊厳とを胸に戦う姿に感銘を覚えると共に、物の多さで生活に支障をきたす高齢者とダブるのです。
男の幸せってなんですか
小説「老人と海」
ヘミングウェイの不朽の名作ですね。不漁で助手の少年も転船した、孤独な老人の話。
数か月の不漁のすえ、喰い付いた1匹の巨大カジキと3日3晩戦い、勝ったものの船上に引き上げられず舟に横づけする。しかし血の匂いを嗅ぎつけたサメの集団に襲われ、老人はサメと戦いつつ帰港するが、カジキは骨になっていた。
助手の少年は眠る(おそらく最期の)老人を見た。老人はライオンの夢を見ていた。
という話。詳しくはこちら
小噺「漁師とMBA旅行者」
こちらも漁を通して、生き方が問われる小噺です。
釣りに時間は掛けない、家族で食べるには十分だと言う漁師。それなら他に何をするのかと旅行者が聞くと、漁師は
「昼まで寝て、それから釣りをする。帰ったら子どもと遊んで嫁とシェスタ。 夜は友達と飲んで歌いギターを弾いて…一日が終わるね」
旅行者は提案する。もっと釣り、売って船を買え。船団ができたら都会に住み、会社を興せ。20年以上掛かるが後は最高だ。株を売って引退し、田舎に住んで
「昼まで寝て、それから釣りをする。帰ったら子どもと遊んで嫁とシェスタ。 夜は友達と飲んで歌いギターを弾いて…最高だろう!」
という話。原文はこちら
どれも正しいのだろうけど
もしコンサルタントの提案で成功すれば、引退後の生活は依然と変わらぬ姿といえど、精神的金銭的余裕が全く違う。かなりリスキーで、船なんてン億円以上かかるうえ、財産でもあり負債でもあり、成功の保障もないけれど。
でも確かに漁師の現在の生活もリスキーだし、釣りの才能を生かさないのは勿体ないうえ、子どもの未来も狭まれる。でも、家族の絆やコミュニケーションがあれば、老後も安泰に暮らしていけるのかもしれない。
でも、どちらのケースも場合によっては、将来「老人と海」状態になって、孤独と尊厳を胸に海で戦い続けることになる、かもしれない。
海も介護も突然牙を剥く
メキシコの漁師の一生に、毎日数匹の恵みがあらんことを。
でも、海は突然牙をむく。老人の受難のように。
そしてそれは、サメのように集団で絶え間なく襲ってくる。
介護もそう。
何故でしょうね?介護や看護や育児などの諸問題がいっぺんにやってくるのは。まるでサメの集団ですよ。
老人の助手の少年のように、物言わず老人を理解してあげられるのが理想かもしれないけれど、それは介護者じゃなくて、しょせん手を汚さぬ傍観者の立場。口を出さないだけまだマシなだけ。
介護者的にはメキシコの漁師みたいに「程々で満足しようよ」と思うけど、それは老人の生き様を否定することなるわけで。
巨大なカジキが手放せない
亡くなった祖母も持ち物が多かったし、義母も歩く場所も無いほど物を床に直置きするので、いつか転ぶんじゃないかとハラハラしています。
私の両親もまだ若いけど持病が心配だし、物も多くて正直、生活に支障が出ているように感じます。本人たちはそう思っていないだろうけど。
物を減らして淘汰して、一旦リセットすることで生活の質は上がるし、家事も楽になります。だけど介護する側が頑張っても、介護される側の物はあふれているし、簡単に処分できるものでもない。
これらはきっと「老人と海」の巨大カジキなのでしょう。
むりやり捨てさせたら、生き甲斐をなくしてしまうかもしれません。
かといって持っていたところで、経年劣化と管理の粗雑さに食いちぎられ、骨ならまだしもボロボロのゴミになってゆくのだけど。
淘汰しよう、凪の合い間に
だから育児や介護を控えたお立場の方は、ぜひおすすめしたいのです。
妊娠前とか子どもが小学生になったとか独り暮らし始めたとか、ちょっと一息つけた時期。物を減らして家事を減らしてみませんか?
育児ならまだしも、看護や介護が続けば心も生活も荒れます。忙しくて掃除も洗濯もままならない。看護介護される側の物を減らすのは難しいでしょうし。
物を減らせば薄情だと言われ、静観すればネグレスト扱い、親戚からの糾弾もあるし、行政に頼るにせよケアマネさん呼ぶにせよ、家の体裁は整えなければなりません。
幸せな看護介護はレアケース。下手に弱みを見せると、喰われて骨になりますよ。
老人の様に、孤高という名の孤独に生きるのか。漁師の様に、家族の絆という名の丸投げをするのか。旅行者の様に、理想を語って妄想で終わるのか。
ひどい物言いに聞こえるけれど、看護介護だって過酷です。
老人や漁師、旅行者ら男性陣の生き様は置いといて、こっちもある程度の準備は必要です。私たちだって稼がなければならないし、先に病気になることも考えなければなりません。
物を淘汰しませんか。
凪の合い間に、自分のために。