淘汰された100の物たち37【花の無い生活】生花がなくても豊かに暮らせるかもしれない件。
何もない空間に一輪の花。
それがミニマリストの理想と思っていた時期が私にもありました。
でもやめました(;´Д`)
花のある豊かな暮らし?
私は生粋のブラウンハンドです。
植物どころか動物も枯らす幼少時代。
マリモを枯らし、サボテンを枯らし、カブトエビはフリーズドライから孵ってフリーズドライに還る。www.kajiless.com
とりあえず子ども達は干からびずに育ちました。
(;´Д`)ホッ
そんな私でありながら断捨離初期は、無謀にも【花のある暮らし】に憧れました。月数回、ガーベラ1本やミニブーケ300円を飾っては「この花に見合う部屋にするぞ!」と頑張ったもんです。
徐々にしおれるブーケを分解し、元気な花を活け直し、大皿に浮かべ、各所に飾り…
でも今、マトモに買うのはお正月の若松ぐらい。
徐々にめんどい系ミニマリストとなった私は、あらゆるメンテを減らしたいと思うようになったのです。
そしてなにより、花が無くとも豊かに暮らせると思えたからでもありました。
ミニマリストは侘び寂びと好相性
ミニマリストと侘び寂びって相性が良いよね。
花一輪の思想も、そこが発端ではないかしら。簡素な茶室の床の間に、一輪挿しただひとつ、といった風情は哲学を感じます。
Wikiによれば「侘び:不足の美を表現する」「寂び:閑寂のなかに奥深さや豊かさを感じる」美意識だそうで(わび・さび - Wikipedia)。
不足の美とか不可解ですが「無くても足りる」心境には至ってきてます(金と筋肉は除く)。
世の中にはたくさんの物が溢れ、足りなければ簡単に補える。そう思うと最近は買わなくても済んでしまう。なんだか気持ちが足りてしまうのです。
もちろん不測の事態の準備は必要です。震災で物がない状況を経験し、防災の準備が済んだからこその充足かもしれませんが。
今は手元に無くとも、いずれ巡って来る気がするのです。本だって借りられる。日用品も、あったら便利はなくても平気。だってこんなに溢れているんだもの、大丈夫。
そう思うにつれ、花を買うことも減りました。
外に出れば緑の木々も金木犀の香りも楽しめる。近所には桜の名所も、薔薇園が美しいカフェもある。滅多にないけどホテルや美術館で豪華な装花を鑑賞できる。
春は木蓮や桜、夏はバラを楽しみ、秋はスーパーで無料のススキをいただいて十五夜を楽しむ。
世の中、なんてたくさんの花と緑に溢れているんだろう。
我が家をいろどる無機物な花たち
いつしか我が家から、生花や観葉植物が消えました。かといって無機質かというと、そうは感じません。玄関にはこんな感じの風景画を飾っています。
私の場合は花や緑を買っては枯らすより、額絵はメンテいらずで美しく、充分です。コストもかからない額絵はおすすめですよ。
扉のつまみも花の意匠に変えました。セリアさんで見つけて、指がすべって開けにくい四角のつまみを全て変えたら、開けやすいし素敵になりました。
あとバラの造花かな。母の日に買っていただいて、飾っています。
花は枯れます。それを「生ゴミ」として捨てるのがずっと負担でした。家族が誕生日に買ってくれたミニブーケなんて、嬉しいからこそ捨てるのが辛い。十五夜にススキは欠かせませんが、ゴミに出すのはしんどいです。なにせ神様の依り代だし…
それも花を買わなくなった理由の1つです。お正月の松だけは、どんと祭があるから安心。
家から生花が無くなって、実はホッとしています。
吾れ花は足るを知る
禅の心や侘び寂びの美学を表した枯山水、竜安寺の石庭。
十五個ある置石を、1つだけ隠れるよう配置にしてあるのは有名な話です。そこから不足の美や不完全の心に思いをはせるのでしょう。
「花のある暮らし」をやめて生花を淘汰し、石庭のように無機物ばかりの今、私は満足です。不足が満足とはこれいかに。
不足や不完全って結局なんなの?未来が今の積み重ねでしかないように、満足も完全ですら不足や不完全の積み重ねでしかないような…
不足という欲は目標で、不完全を補う修練は成長です。
なのに完全や満足が厭われるのは、私たちが物に期待しすぎるからでは?
アレがあれば、コレがあれば、花があれば…と物ばかり積み重ねる。修練を積み重ねて完全へ至るところを、欲ばかりを積み重ねてる。
竜安寺には「吾唯足知」ー吾れ唯だ足るを知るーと彫られた銭形つくばいがあります。
欲はあるが、無くてもこれまた良いもんだ。って感じかな?(凡人思考)
花はそう思えるようになったので、お金も筋肉もそうなりたいものです。でも私の場合、さんざん欲こいて足掻いてやっと、無欲に至る性分みたい。
まぁ精々、足掻いてみようと思っています。
【さんざん欲こいてる話】↓